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第70話 ファミ通取材

一本の電話から始まった。「ファミ通」というゲーム週刊誌での取材依頼だ。ゲームといわれてもさっぱりオンチの私は「あの〜、私全くゲームの事知らないんですが・・・・。」と言う。「実際にゲームをやるんでしたら東京にはトルネード氏というガンマンがいるので彼を紹介します。彼でしたらガンプレイも超一流ですから。」しかし、電話口の編集者は「今回”レッド・デッド・リデンプション”というゲームがリリースされたのでウェスタンというテーマからガンメーカーのコネティさんを取材したいのです。」との由。ゲームに疎い事で臆病風をふかした私は「予定を検討して改めてご連絡します。」と電話を切った。ゲームかぁその昔「インベーダー」思いっきりやったなぁ〜、と考えていたら、ふと前の項での1980年米国に渡ったときのことを思い出した。ネヴァダ大学のスチューデント・センターのカフェテリアにオンボロのインベーダー・ゲーム機が置いてあってそれに挑戦したときのことだ。その昔はインベーダーだけはかなりのスキルだった。特に「名古屋撃ち」の名人。(インベーダーゲームで反応するのは年令が分かりそう)。名古屋撃ちをマスターすると何面でも延々と続けることが出来る。集中して何面もクリアしていたら拍手が聞こえ、ふと我に返って顔を上げたら私の回りは黒山の人だかり。学生たちが私のゲーム展開を見守っていたのだ。このときはびっくりさせられた。さて話は「ファミ通」に戻るが、えぇーい、ゲームやれと言われりゃぶっつけでやればいいや、とばかりに取材受諾をしたら取材のプレパラ(準備)で以下の質問がメールされてきた。ついでに一部を掲示をした。私のウェスタンへのスタンスが分かるかな?取材当日は結局ゲームはやらずに済んだ。このゲーム、トルネード氏から「本当に面白い!」と太鼓判が押された。ゲーム好きな方は是非挑戦を。

私への質問項目(インタビューの事前質問):
・ウェスタン、カウボーイを好きになったきっかけ
答:ウェスタンの山へはたくさんの登り口があります。それは音楽、ファッション、乗馬、、映画、銃などがあり私の場合は子供の頃(典型的な団塊世代)のTVウェスタンブームでした。ララミー牧場、ボナンザ、パラディン、ローハイド、拳銃無宿、ライフルマン、星の数ほどありました。私を含め、当時の子供たちは西部のガンマンになりたいと思っていたはずです。そんな気持ちを持ったまま大学を卒業、某広告代理店へ、しかし「ソフト」を売るのではなく「ハード」を売る仕事をしたい、10年後にドロップアウト 、モデルガン、エアガンの製造、販売会社ハートフォードを設立します。製造するガンは当然ウェスタンガンが中心になり、今に至っています。

・ウェスタンの魅力
答:ウェスタンはライフスタイル、もっと突き詰めると「生き方」につながるのではないでしょうか?ウェスタンの本質はフロンティア・スピリット、開拓者精神に有ると思います。何事にも負けず進むというそういう精神。今ではモデルガン(ハード)を売ると同時にそのスピリット(ソフト)も付けていると考え企業活動をしています。

・好きな西部劇作品、俳優(役)
答:月並みですが映画では「荒野の七人」、TVウェスタンでは「拳銃無宿」、ですから好きな俳優さんはスティーブ・マックィーンさん。彼の遺作である「ハンター」は、たまたまアメリカに居たのでサンフランシスコで見ましたね。

・ファストドロウを始めたきっかけ
答:とにかく鉄砲が好きな子供でしたからいつも早撃ちの真似事をしていましたね。大人になってからも一種のお座敷シューターとして家でひっそりと練習しました。実際に私が現在のファストドロウに関わるのはモデルガン製作が始まってからです。モデルガンはコレクションする、分解する、組み立てる、メカを知る、上品なインテリア品としてお部屋に飾るなどの静的な用途が中心だったものを「よりアクティブに楽しむ」という新たな用途の提案をしたくて関わりが始まりました。

・ウェスタンにまつわる、印象的な思い出
答:トイガンビジネスを始めて数年後に米国サンフランシスコで実物のコルトSAA45(通称ピースメーカー)を購入しました。サンフランシスコに預けてあるそれを撃つのが米国出張の楽しみでした。コルトSAA45は1873年に製造が始まったコルト社のフラッグシップ的な製品で140年近く経過しているにも関わらず現在も同じデザイン、同じメカニズムで製造されている西部のガンマンのための拳銃です。銃に「ピースメーカー」とニックネームをあるほどの超有名なガンで本ゲーム中でも使われています。今このピースメーカーはグアムに移送してます。日本からぐっと近くなった分一年に一回くらいのペースで撃ちに行ってます。

インタビューが掲載された週刊ファミ通表紙2010・12/9・16日号
インタビューのページ。全体のタイトルが「毎日の生活でエンジョイせよ!」だ。
事前質問が役立ったインタビュー記事。トルネード吉田氏の記事も。彼のガンスピンは一級品!
レッド・デッド・リデンプション
米国ロックスター・ゲーム社より2010年に発売されたゲームソフト。西部開拓時代を舞台にしたオープンワールドのアクションアドベンチャーゲーム。米国では2010年5月に発売、日本では同年10月に発売された。現在コンプリートエディションが発売中。定価\7,340円 ゲーム中選択できる武器の中に当社が近々製作を予定している「ボーチャード」もある。ゲームの中では「オート銃」と表現。
    【2012年04月08日発】

(株)ハートフォード代表 コネティ加藤



第69話 カレーきしめん(61話カレーうどんの続き)

2010年暮れに店じまいをした「庄吉」。自分好みのカレーうどんを食べられない失意の日々が続く中(おおげさ?)見つけましたよ!それも当社本社から車でほんの数分の近さ。それが「玉家」さん。何気なくお店の前を通ったら看板が。新メニューのお知らせで、それが「カレーきしめん」。名古屋じゃぁ「うどん」より「きしめん」だよねー。とばかりに早速、頂きました。以前と同様たまごを落としてもらった。味はマイルドなカレー味で私好みだ。地図も記すのでこちらも是非お試しを。
愛知県名古屋市熱田区一番2-30-12 電話:052-661-5694
営業時間:11:00〜14:30、17:00〜21:00(ラスト・オーダー20:20)
前の看板で見つけた
玉子をおとしてもらって大満足。味はまろやか、やっぱり名古屋じゃきしめんだぎゃー  定食;900円
地図をつけたので参考に。ちなみに赤丸が当社。
おまけ。
2011年半ば、新宿にある銃器専門誌の雑誌社へ打ち合わせに行った。その帰り道に「カレー専門店」なるお店があることに気が付いた。もちろん素通りする訳にはいかない。店名は「せんきち」。カレーうどんでお世話になった名古屋の庄吉はもうすでに無く、私好みのカレーうどんを探していた。調べてみたらチェーン店で東京では有名 な店らしい。以下に都内の住所を記しておいたのでご存じない方はお試しあれ。
新宿甲州街道店
〒151-0053
東京都渋谷区代々木2-13-6
TEL. 03-5358-7054
営業時間 11:00〜23:00
お店の看板をパチリ!!
新宿甲州街道店への地図
    【2012年01月31日発】

(株)ハートフォード代表 コネティ加藤



第68話 東京店「SAA メモリアル・コーナー」 その2

 なつかしのアメリカ製トイガンを網羅した本がある。好事家(このエッセイのファンらしい)から寄贈され、大切にしている。なぜならほとんどのアメリカ製トイガン、それもウェスタン・トイガンを網羅しているちょっと珍しい本だからだ。ページを開いていくと「あっ、これ昔買った、持ってた!」「欲しかったけど高くて買えなかった。」と思い出すものが一杯あるからだ。23話でこれら昔のトイガンを紹介したが、いい機会なのでこの本とともに往年のトイガンの紹介第2弾として更新をしたい。さて、本の題名は「ウェスタン・トイガンズ」。銃関連本が中心のクラウス・パブリケーションズ出版社(米国)刊。若いトイガンファンには知らない製品ばかりだろうが懐かしのマテル、ヒューブレイ、ニコルス、デイジーなど団塊の世代ならついニタリとするブランドがずらりと掲載だ。また私も全く知らないブランドもある。レズリー・ヘンリー、ハミルトン、マークス、ケントンなどなど。せっかくなので23話で掲示した製品を調べてみた。

 コルト45 よく見たらコルト45と刻印されている。えっ60アーミーじゃないの?というように当時は適当にネーミングされていたようだ。紹介文を翻訳すると・・・、ハブレイ製(HUBLEY:いつも悩むけどヒューブレイかもしれない。前回も書いたけど誰か発音を教えて!)1959年〜65年製造。ダイキャスト製、回転するシリンダー、カートリッジ付き。彫刻入り。上:コルト45ニッケル、ゴールドシリンダー、アイボリータイプグリップ付。下:珍しいモデル1860.44口径。Dull Finish (多分古美仕上げ?)アイボリータイプグリップ付。おそらく私のように突っ込みを入れられてM60刻印も作ったんじゃないかな?ちなみに取引価格はコルト45が85ドル〜175ドルでM60の方はやはりお高く100ドルから225ドルとのこと。

 その下の項では同製品の高級仕様、ポリッシュ仕上げ、グリップは木製風?ケース入りでよほど珍しいのだろう、取引価格も150ドル〜300ドルする。

 出ましたマテル・スナブノーズ。デティクティブ風だがこれをウェスタン風に仕上げたモデルも掲載されている。
23話でもこのことは書いたが本当に有ったんだ!製品名がファンナー50:マテル社製、1965年〜68年製造。要はグリップだけピースメーカータイプに付け替えているだけだ。よく写真を見ると木製(?)グリップが標準装備のようだ。シルバー・シリンダーかブラック・シリンダーの2種があるようだ。取引価格:75ドル〜145ドル。(注)一つ置いて下にはマテルのヒット作ファンナーが。懐かしい!

ハブレイ(ヒューブレイ?)製レミントンもどき。グリップは私の好みでつけかえた。カラーページに掲載されているという事はよく売れた製品という事だろうか?。

おまけ。
ウェスタン物で無いのでこの本には掲載されていない。ハブレイ製小型オート(もどき?)よく見ると「ホーク」と書いてあるので商品名らしい。彫刻が微細でオートではあるが気に入っていたモデルだ。

次は現代リボルバー(と思う)トルーパーと書かれている。
これも巻き玉火薬を使用。写真参照


【注】展示物のトイガンはすべて銃口を塞いで金色にしています。(対称面で分解できるいわゆるモナカモデルであっても全長が18センチメートル以内のものであっても銃口閉塞、金色塗装しています。)バックルガンのみあきらかに玩具と見える事から当時の仕上げのままで展示しています。
※関連法規:銃刀法第22条の2第一項および内閣府令第17条の二「模造けん銃の所持の禁止」、銃刀法第22条の3および内閣府令代17条の三「販売目的の模擬銃器の所持の禁止および模擬銃器に該当しない物」
    【2012年01月31日発】

(株)ハートフォード代表 コネティ加藤



第67話 九四式自動拳銃 その2

 2011年になってから九四式自動拳銃モデルガンはカッタウェイ(1月)に始まり後期型(5月発売)、中期型(10月発売)と発展してきた。私が如何にこの銃に思い入れを持っているかの証でもある。

 65話を読んだ方から鳥居松製造所慰霊碑へ行きたいので地図が欲しいという要望があった。前回、書き足らなかった部分と合わせて掲示したい。まず、地図は写真を参考にしていただくとして住所は次のようだ。愛知県春日井市上条町6(じょうじょうちょうと読む)慰霊碑はガソリンスタンドの向かいにある。 鳥居松製造所の沿革を記しておく。参考にして欲しい。

 *名古屋陸軍造兵廠 鳥居松製造所 昭和十四年〜(1939年)
沿革:昭和六年に起きた満州事変以降、長引く戦争のために、陸軍は兵器や弾薬の増産に迫られた。名古屋工廠(昭和十五年以降名古屋陸軍造兵廠)においては鳥居松製造所(昭和十四年)鷹来製造所(昭和十六年)柳津製造所(昭和十九年)楠製造所(昭和十九年)を建設してそれに対処していった。鳥居松製造所は昭和十四年五月一日、千種兵器製造所の鳥居松工場として開設、同年七月に独立したものである。敷地面積は二十六万三千坪余、敗戦時の従業員数約一万二千名だった。製造品目は九九式小銃、三十年式銃剣、十四年式拳銃、九四式拳銃、一式短剣、九九式狙撃銃などであった。(「名古屋陸軍造兵廠史・陸軍航空工廠史」より)
 鳥居松製造所の当時の歴史に興味のある方は「郷土史かすがい」25号にその成り立ちについて詳しく書かれているのでおすすめしたい。終戦の8月15日前日に製造書が空襲を受けたことなども記述されている。

郷土誌かすがい 第25号|春日井市

 ところで65話後半で予告した「後期型(末期型)」をリリース。立て続けに「中期型」もリリースした。洋書「日本帝国の拳銃」を読むほどに「ラスト・ディッチ=末期型」と「中期型」を是非形に残したいという気持ちが つのり製作を決めた。中期型に関しては私がその昔にサンフランシスコで撃ったのが中期型そのものだったというのも理由の一つだ(65話の写真参照)。以下に後期型及び中期型モデルガンに添付するマニュアルのコピーを掲示するので興味のある方は読んで欲しい。前期型との違いが数多くあることがそれを再現したいメーカーとしての血が騒いだのもあるかも知れない。銃器専門誌で当社製品を称して「ハートフォードがモデルアップするのは歴史を背負った銃。」と表現された。これほど的を得た表現は無いと感じた。

 九四式自動拳銃後期型(末期型)について。
一般的に九四式は昭和15年を境に前期型、後期型と分けられます。約7万丁といわれる総製造数では圧倒的に後期型が多く、前期型20%後期型は80%という極端な差になっています。前期型は仕上げが良く、後期型、特に末期型は質が落ち。別の銃と思われるほど形状的に手抜きされていました。その違いはフレーム前部の厚みの差、スライドは前期型は円形を維持した優雅な形状をしているのに反し後期型ではよく言えば太くガッチリとしたデザインに変わっています。ある意味、前期型と後期型の形状の変化はそれぞれ女性的、男性的と表現出来るかも知れません。昭和19年戦況が落ちた「本土決戦」前、名古屋陸軍造兵廠鳥居松製造所に東京、国分寺から九四式自動拳銃を製造する機械が運ばれ、鳥居松で製造が始まりました。驚くことに終戦の八月の二ヶ月前の6月までその製造は続けられました。学徒動員など九四式製造の加工内容、加工程度、加工量、質は落ちるべくして落ちていきました。ベークライト製チェッカーグリップもただの板切れに変わり、なだらかなラインを描いていたボルトは加工されず角ばったままの状態で組み立てられ出荷されました。これらは海外では「square back model」と表されています。昭和20年以降の「ラスト・ディッチ」訳すと「どたん場」といわれる製品は後期型でもそれはもはや末期型といえるものでした。今回、再現する後期型はまさしくこの「ラスト・ディッチ」そのものです。優雅で女性的だった前期型に比べ男性的な後期型、いや末期型はいわば歴史の証人の一つです。コレクションとして大切にお持ちください。

 九四式自動拳銃・中期型
九四式は一般的に昭和十五年を境に前期型、後期型と分けられますが製造数に限ってみれば前期型が約9,560丁、後期型は約61,500丁と圧倒的に後期型が占めます。先にリリースした後期型は末期型といわれ戦況が落ちた昭和二十年三月製を再現。今回は後期型の中でも「中期型」と位置される昭和十八年十二月製を再現します。専門誌やネットでなど一番見る機会の多い典型的な九四式拳銃の姿です。その特徴で特に挙げられるのがチェッカー目の粗いグリップ。全体的にほっそりとスマートな前期型に比べがっしりとした男性的なフォルムがこの中期型です。その違いを是非、体感ください。


なお、熱田工場(現、中京倉庫)の住所は以下の通り。
住所:名古屋市熱田区六野町2-1-3
レンガつくりの建物に沿って歩くとJR線(当時は国鉄)にぶつかるはずだ。戦時中は構内に引き込み線があり物資の出荷、供給に役立っていたそうだ。名古屋には数多くの軍需工場があるので機会があったら紹介したい。
旧鳥居松工場への地図
上条町交差点から見る「慰霊碑」
違ったアングルからの「碑」
横に昭和二十年戦死された方が彫られている
前期型と後期型の相違点(当社マニュアルより
後期型写真
当社チラシ・中期型 前期型との比較図も掲載。
当社チラシ・前期型 驚くことにインターネット・オークションで3,000円で出品されていた。
洋書「日本帝国の拳銃 再考」と当社九四式・中期型とカッタウェイ。前期型、後期型は売り切れてしまった。この洋書にはお世話になりました。特に製造数、シリアルナンバーは参考にさせてもらった。
    【2012年01月31日発】

(株)ハートフォード代表 コネティ加藤



第66話 テキサス・パターソン

 平成21年1月当社新製品「テキサス・パターソン」は古式銃レプリカ・モデルガン・シリーズ第一弾としてリリースした。その後シリーズはウォーカー、ドラグーンと続きシリーズ完結となるコルトM1860アーミーの発売に至った。これらのシリーズ品はオールドガンファンの皆さんからかなりの好評を頂いた。さて、パターソンだが実はこの製品、製作発表は1996年6月。つまり12年後に実現した企画だった。これだけ以前に発表した製品がなぜ?を書きたい。オールドガンファンにとっては興味深々だろう。(前項、九四式自動拳銃と時系列順が違うが原稿まとめに時間がかかってしまったからだ。ご了承の程を ))

 12年前発表のテキサス・パターソン
 発表はビッグサイトで開催された東京おもちゃショー会場。当社が加盟するASGK(日本遊戯銃協同組合)ブース。当時の様子は専門誌「ガン」「アームズ・マガジン」「コンバット・マガジン」で記事となり、当社パターソン発表も取り上げられた。展示する試作品を突貫工事で準備した。この頃は試作製作自体馴れてなく樹脂、金属パーツを製作するのに外注探しで苦労した。試作製作で提示される値段が高いのか安いのか判断が付かず結局かなりの経費がかかってしまった。企画のスタートはたった一枚の横図面から。なにも取り立てて探した図面ではない。ガンファンなら誰もが知っている「コルトのすべて」(国際出版社刊)に掲載された図がそれだ。この図面から試作を起こしたことで驚く人も多いだろう。一枚の図からパターソン・プロジェクトが始まったと言っても良い。しかし、一枚の図から全ての設計が出来るわけがない。より正確な図面制作のため翌年、同レプリカ(ウベルティ社製)を米国で購入、サンフランシスコに預けて採寸作業にとりかかる。実はこのレプリカ、ガン誌97年9月号にて取材されている。ところが採寸過程でこのウベルティ製パターソンが実物(正真正銘の)と相違点がいくつかあることに気がつく。違いは*個々のパーツ形状*シリンダーハンドの板バネの止め方、などなど。実物はそう簡単に買える値段ではない。当時でもテキサスパターソンの価格は3万ドル現在だと10万ドルと言われている。その結果、実物の資料探しの放浪がここから始まった。

 そもそもパターソンとは?
 パターソンはサミュエル・コルト氏による1834年製の「初の量産リボルバー」で銃器史に重要な意味を持つ製品だ。しかし、彼もまたあるフリントロックから触発されてリボルバーの概念を作り出した。それは「パターソン・ブック」(私が生きている間に是非会いたい人「R.L.ウィルソン氏」の著書。)にその秘密は隠されている。「パターソンブック」の表紙カバーにはテキサス・パターソンを真ん中に上に変わったフリントロック銃と下にコルト・ウォーカーが写真に収まっている。この変わった銃こそ「コリアー・リボルバー・フリントロック」でサミュエル・コルト氏がリボルバーメカニズムの下敷きとしたと噂される銃だ。最近コリアーのスケルトン図を見つけたので掲示しておく。なかなか見る機会は無いと思う。図からシリンダーは撃つごとに回転するよう「ばね」が仕組まれていたことが分かる。コルトさんになった気分でご覧あれ。

 HWSパターソン試作は3丁あった!
 現在までに試作は大きく分けて3丁作られた。
試作1、96年当時に各専門誌、当社広告で使用された試作品。実は発売をアナウンスした時はまだ具体的な試作が無く12年前のものを引っ張り出して使った。外観上特徴的なことは*全体にマット調黒色*ハンマーやトリガーなどアルミ製試作の為シルバー色。*木製グリップは明るいニス仕上げ。
試作2、平成20年末に製作された試作。CADデータを元に製作した粉体造型で作られている。粉体造型は出来上がりが白いざらっとした樹脂の為それを黒塗装している。3、フレーム、シリンダー、バレルなど樹脂パーツ、ハンマー、トリガー、ネジなどの金属パーツ全てを量産試作で組み上げた試作。ほとんど量産と変わらないがダイキャストパーツは黒染めされてなくシルバー色。

 企画が飛躍的に進んだ理由?
 一つはR.L.ウィルソン氏の著作「パターソン・ブック」(前述)の出現。当社常連の一人であり、なおかつ熱烈なパターソン・ファンのJ氏から本の存在と内容のアドバイスを受けた。結果的に彼から「パターソンブック」を入手したことが企画推進に大きな助けとなった。もう一つがCADの進化とそれによる粉体造型という試作制作方法だ。通常モデルガンやエアガンを製造するにあたり試作はとても重要な工程だ。昔は職人さんが(例えば六研の六人部氏、旧MGCに所属されていたタニオ・コバ氏、両氏は業界では神様と慕われている。)設計図を元に手作りで原型を製作したものだ。ところがコンピューターの普及がこれらの工程を一変、設計をCADで行うことで試作もCADデータから製作出来るようになった。当初の光造型から現在は粉体造型という方法で試作を製作するのが一般的だ。この「らくがん」のお菓子のようなものが粉体造型。粉体造型は3Dコピーとかラピッド・プロトタイピングとも呼ばれる。96年当時は粉体造型というシステムはまだ無かった。12年間で飛躍的に進歩したCAD設計とデータを元にした試作製作方法は開発のスピードアップに大きく貢献した。
 「テキサス・パターソン」は地味ではあるが古式銃レプリカ・モデルガンシリーズ第一弾として確実なオールド・ファンの需要に支えられ、その後、第二弾「コルト・ウォーカー」第三弾「コルト・ドラグーン」(4機種)第 四弾「コルト60アーミー」につながっていった。モデルガンは「正確な一分の一」の「立体的な」「精密模型教材」という明確で新たなジャンルをパターソンが切り開いてくれたと考えている。「ウォーカー」「ドラグーン」「60アーミー」の開発ストーリーは順次紹介していくつもりだ。

当社広告や専門誌で紹介されたパターソンには都合3種類の試作がある。*12年前に製作された試作(写真左)、*粉体造型で製作された試作 (同中)、*実際の金型での成型品(同右)だ。
 12年前の試作の特徴は・ABS樹脂製、ちょっと青みがかった黒塗装。・本当のケースハードンを施したルーフ・プレート。・つやあり仕上げのグリップ。
 粉体に黒塗装しているため表面がザラッとしている。確認用で撮影した写真のためバックがよろしくないのが恐縮。
 金属パーツと樹脂パーツのい勘合を見るため撮った写真。試作グリップのためラインが合っていない。
参考にした本「コルトの全て」(国際出版KK刊)と参考にした一枚の図面。
東京おもちゃショー(12年前)でのスリーショット。左から私、ケイ井守、エージェント向川。みんな若い!3人の後に「テキサス・パターソン」の図面イラストが掲示されているのが分かる。
2009年1月号専門誌当社広告でパターソン発売の告知をする。広告でのパターソンの写真は12年前(96年)に製作された試作品そのものを使用。
グアムに預けている当社のテキサス・パターソン。本物だったら10万ドル(1000万円)以上の価値がある。残念ながらこれはウベルティ社レプリカ。メカニズムも実物とは一部異なっている。当初は設計の参考にしたが、実物のテキサス・パターソンとの相違点に気付き「実物に忠実」を主眼に改めて設計をし直した。
ウベルティ製パターソン。決定的に違うのはハンド用板バネはシアー&ボルト・スプリングと同じネジで止められていること。詳しく知りたい方は当社パターソンと比較のほどを。お持ちでないかたは 是非ご購入を。
ほぼ同じアングルからの写真3葉。当社製の再現性の高さに注目。
左からウベルティ、実物(パターソンブックから)、当社製
企画を劇的に推し進めた本。パターソンブック。
パターソンをはさんで上がコリエー、下がウォーカー。
(左)コリエー・パーカッションのスケルトン図
(右)パターソンのスケルトン図(12年前に制作したもの)
パターソン用パーツ・アクセサリーもリキを入れて製作。*シェルレリーフ・グリップ*彫刻入りシリンダー*ラウンドバックシリンダー*カスタムボルトなどなど。
アクセサリーのニップルレンチ。この美しい色と模様の調和!これこそが「ケースハードン」美。1800年代当時、牛骨灰を使って焼入れを行っていたそうだ。ケースハードンはその焼入れの過程で色の変化と模様が出来上がる。それは陶器の釉薬が成す偶然的な効果と似て同じものは二つと出来ない。私が「ケースハードン」を芸術の域にあると思う所以だ。長年の夢がかなった瞬間だ。
購入者特典としてクラシックレンチをプレゼントすることに。数多くのハガキを頂いた。その中に購入者の年令を書く欄があり送られたはがきを集計するとほとんどが50、60代だった。20代、30代は帰ってきたハガキだけで判断すると10名に満たない。ほとんどのハガキでは「このようなマイナーな銃を作ってくれて有難う。」だった。若い人たちにもオールドガンに興味を持ってもらいたいものだ。
後にショートバレルモデルも製作。バレル長43/4インチはファストドロウにこだわる当社だからこのバレル長を選んだ。
当社が使用するHW樹脂、2210Bは仕上げる事でこんなにも美しくブルーイングする事ができる。もちろん個人でそれを趣味としている人も。当社ウェブでもその方法をレクチャアしているのでご参考に。二丁はそれぞれ個人の方の作品。
    【2012年01月31日発】

(株)ハートフォード代表 コネティ加藤



第65話 九四式自動拳銃

 プチ九四式ブームらしい。(平成22年10月時点)当社の九四式自動拳銃モデルガン発売告知から評判は高まったようだ。ネットではいくつものブログやスレッドの書き込みがあり日本軍用拳銃ということでいろんな意見や考えが出ている。この時期起こった尖閣諸島問題も関係しているのだろうか?ウェスタンガンが中心の当社が「日本軍用銃」ということでかなり驚かれたようだが私がこの銃のモデルアップを考えたのは意外と古い。1987年、サンフランシスコでこの銃を撃つ機会を得た。当時の記憶で今でも残っているのは手の感触だ。とても握りやすかったことだ。日本人が日本人としてのアイデンティティを感じるのは意外と海外に出たときかもしれない。海外で非日常のシューティング・レンジで日本人のために設計された銃を握る、こんな機会は一般の日本人にとっては無い経験だろう。九四式のDNAは私に流れ込み明確に「日本人」を想い起こさせたはずだ。当時は一介のショップだったがメーカーになった暁にはこの銃を立体化させようと決めた瞬間だった。もう一つモデルアップを押した理由がある。それは九四式が旧陸軍造兵廠名古屋工廠の管理下で製造されたことだ。全ての九四式には南部銃器とともに名古屋工廠のマークが刻印されている。このマークは「しゃち」がモチーフとなっているらしい。1878年開催のウィーン万博に初めて日本が参加したときには名古屋城の「金のしゃちほこ」を持っていったように「しゃち」は名古屋にとって重要な象徴だ。もしあなたも九四式自動拳銃を握ったことが無いならぜひ体験して欲しい。果たして「日本人」を思い起こさせるであろうか?

九四式自動拳銃とは?(当社同モデルガン・マニュアルより)
 九四式自動拳銃は昭和初期に旧日本軍が開発した南部麒次郎氏設計のオートマチック拳銃です。九四式の名称は、陸軍によって準制式制定された年、一九三四年(昭和九年)が、皇紀二五九四年にあたることからこの名称となりました。使用弾薬は八ミリ南部弾で、十四年式拳銃、南部大型拳銃と共通の実包を採用しています。陸軍造兵廠名古屋工廠の管理下で一九三四年〜四五年の間に約七万丁製造されました。当初は民間護身用拳銃として設計された拳銃でしたが、十四年式自動拳銃より小型の拳銃が必要とされ、また南部式小型拳銃(ベビー南部)が八ミリ南部弾仕様では無く、高価であった事からこの九四式が旧日本軍に採用されるに至りました。小型拳銃としては非常にユニークな設計であり、他に類を見ないオリジナリティ溢れるメカニズムを採用しています。逆にそれが奇銃、珍銃扱いされる所以です。特に逆鉤(シアバー)の欠陥がいつも大きく取り上げられ、この銃の評価を著しく低下させています。九四式自動拳銃と言えば、「あの自殺銃ね」と即答される方もみえます。しかし当時の戦時下では拳銃の取り扱いが諸外国とは著しく異なる旧日本軍にあって、小さく、軽く、作動不良が殆ど無かったこの銃は、十二分に目的を達成し、逆鉤は欠陥とは認識されず問題にもならなかったとされる研究が有るのも事実です。つまり、本銃の評価は戦後、海外で日本人以外の手により書かれたものが殆どで、考え方が「フルロード、コック・アンド・ロック」で所持するのが当たり前という西欧人の評価であるという事です。故に旧日本軍的考え方で、日本人による実射リポートなどでは、日本人の手にあった持ちやすい銃で、撃ち易く、良く当たり、作動不良が無く、高評価であるという事は目にする機会が少なく忘れられがちです。

HWS九四式自動拳銃
 当社では九四式自動拳銃の中でも特に仕上げの良かった前期型、昭和十二年八月製造製を海外で精力的に取材、ステップメカのショートリコイル、トリガーとシアーバーの連携、複雑な形状のハンマーメカニズムなど、ダミーカートリッジ仕様ならではのリアル・メカニズムで再現しています。ビンテージ・レプリカ・モデルガンというコンセプトのもと立体的な精密模型教材として意匠、メカニズムの再現に最大限努力した結晶です。当時の日本人(30歳男性)の平均身長は約161センチ、平均体重は約54キロ。(厚生労働省の国民健康、栄養調査より)それを想い本レプリカを握っていただければ日本人を体感できる筈です。あえて個人的なことを書かせてもらえるなら20年以上前、米国サンフランシスコで本銃を撃つ機会があり、この時の手の感触がいまだ残っています。それもモデルアップにつながった由縁の一つです。本レプリカのリリースによってこの銃が見直され、再評価されることになればモデルガン・メーカーとしての大きな目的の一つを果たせたことになります。時代に思いを馳せこの名銃をいつまでもご愛用いただけますようお願い申し上げます。
九四式自動拳銃(実物)を撃つ私(1987年当時)
やっと出来上がった試作に興奮。粉体造型品。
その特異なデザインも見慣れてくると愛着が湧く。写真は当社広告で使用したもの。復刻に苦労した「保存取扱説明書」と一緒に。
発売を予告する専門誌広告原稿
刻印されている名古屋工廠のマーク(当社製)名古屋工廠のマークは「だるまさん」をひっくり返したような図形。
名古屋造兵廠鳥居松製造所跡地にひっそりと佇む「慰霊碑」(現、愛知県春日井市の王子製紙敷地内)。名古屋工廠マークが分かる。
九四式実射の際、同時に二十六年式(左)も撃った。同じく、南部十四年式を撃つ (中)。エジェクトされたカートリッジが宙を舞う(右)
当社本社(名古屋市熱田区)のほんの近くに陸軍名古屋造兵廠熱田工場跡地(現、中京倉庫)がある。写真は当時の面影がそのまま残されたレンガ造りの建物。

熱田工場をJR側から見る。当時は国鉄線路に隣接、引込み線があった。
より確度の高い製品にする為、資料を探し歩いた。東京、中目黒の防衛研究所資料閲覧室、アジア歴史センター、靖国神社遊就館、愛知平和記念館などへ。協力いただいたりお世話になった皆さんに感謝。
写真はアジア歴史センターからのもの、同取扱法案と同銃の準制式制定の資料(昭和九年、九四式は制式ではなく準制式軍用拳銃であることが分かる。)
当社九四式自動拳銃のスケルトン図。
今後予定している同銃後期型(末期型)のイラスト

【2010年12月28日発】

(株)ハートフォード代表 コネティ加藤



第64話 漫画「カムイ伝」

 映画「カムイ外伝」を見た。昨年9月に公開された白土三平氏の漫画(劇画)「カムイ外伝」がベースとなった映画だ。アクションが余りに激しくけが人続出で撮影が大幅に遅れたらしい。それほど激しいアクションも映画を期待した理由の一つだった。実は昔から白土三平作品を読み続けている。中学生の頃、初めて「忍者武芸帖」を友達から見せてもらって熱中した。当時は「忍者武芸帳」は一般の本屋にはなく「貸し本屋」にあった。今では「貸し本屋」を知らない若い人もいるだろうが呼んで字の如しで本を貸してお金を取るという、そういうお店があった。貸し本屋は今でもまだあるのだろうか?私が大学生になったばかりの1967年頃はかろうじてあった。下宿していた京都市左京区吉田神楽岡(今でも番地まで言えるこの下宿先には4年間世話になった。)は吉田山の裏側で小高い場所にあった。坂を下りた所にその小さな貸し本屋があって数多くの白土三平作品が借りることが出来た。当時(より少し前?)劇画「ガロ」が発刊され「カムイ伝」が始まった。何回生の頃か忘れたが夏休みを利用してわざわざ京都から東京にある「ガロ」の出版社「青林堂」にまで行ったことがある。白土三平氏の本が欲しかったからだ。さて肝心の映画「カムイ 外伝」はカムイの「変移抜刀霞切り」(へんいばっとうかすみぎり)や「飯綱落し」(いづなおとし)などお馴染みの必殺技が劇中に出てきてCG技術 のおかげでリアルに再現されていた。女性向ではないが機会が有ればご覧になっては如何だろう?平成22年5月現在DVD化されているはずだ。
こんなTシャツまで 所有。(ユニクロ・オリジナル)
松山ケンイチ氏主演の「カムイ外伝」のポスター
私が所有する「白土三平」氏作品。東京まで行った青林堂で購入した貸本屋本。初期の忍法秘話やシートン動物記もある。とくに氏の動物描写がすごい。
比較的最近に小学館から出版された忍法秘話。
1964年〜71年当時読みふけった「ガロ」誌。カムイ伝第一部が掲載された号は全て買った。

【2010年12月28日発】

(株)ハートフォード代表 コネティ加藤



第63話 カレーうどん

2010年、今年の夏は本当に暑かった。熱中症で病院に緊急搬送されたお年寄りの多かったこと。ご存知の通り特に名古屋は暑い。酷暑の毎日が続いた。九月に入っても最高気温が38度Cという日も有ったし、その暑さで線路がゆがんで列車が徐行運転という笑えないニュースもこの地域ならではのことだった。私はそんな毎日の暑さにもめげす(歳のくせに)なんとかバテずにこの夏は乗り切った。「ラブドール」の冷麦、「庄吉」のざるうどんのおかげだ(以前のこの項でも書いた)。そんな麺好きな私が去年の冬からマイブームにしているメニューが「カレーうどん」。こう書くとカレーうどんフリークの皆さんからの一言(いちげん)が一杯集まることだろう。しかし、私の好みは「庄吉」のカレーうどん。実を言うと子供の頃からカレーは好みでなく成人してからでもほとんど食べる機会がなかった。たまに食べた後必ず「胸焼け」で後悔したものだったからだ。そんな私も「歳を取ると好みも変わる」とばかりにカレーが平気で食べれるようになった。その訳は吉祥寺、サンロードのカレー屋「ココ壱番屋」にある。東京店お留守番で長期出張の際にはお世話になったものだ。お陰で「カレー嫌い」を克服できた。でもよくよく考えたら「ココ壱番屋」は愛知がベースなのね。さて、庄吉のカレーうどんは辛いカレーに弱い私にはぴったりで、辛くも無く、かといって甘くも無く調度いいルゥ。それにお馴染みのもっちりとしたうどんがからまってとてもおいしく頂いている。生卵を落としてもらい一緒に食べればそれはもう「幸せ感」一杯。
食べ終わるのが惜しくて「無くなっちゃった」と残念でたまりません。当社に立ち寄られる機会があれば是非行ってお試しを。
庄吉10時AM〜7時PM、日曜定休。(2007年2月この項で紹介)
カレーうどん(大盛、生卵入り)\800円
残念なお知らせですが今年(2010)の12月で「庄吉」は店仕舞いだそうです。やっとこれからの季節、カレーうどんで温まること出来たのに・・・・。
 
最近のマイブーム「庄吉のカレーうどん」
庄吉、残念ながら平成22年12月一杯で閉店。

【2010年12月28日発】

(株)ハートフォード代表 コネティ加藤



第62話 マスコミ露出其の4(ファミ通取材)

ある一本の電話から始まった。「ファミ通」というゲーム週刊誌での取材依頼だ。ゲームといわれてもさっぱりオンチの私はおずおずと「あの〜、私全くゲームの事知らないんですが・・・・。」と言うのが精一杯だった。気を取り直して「実際にゲームをやるんでしたら東京にはトルネード氏というガンマンがいるので彼を紹介します。彼でしたらガンプレイも超一流ですから。」しかし、電話口の編集者の方は「今回”レッド・デッド・リデンプション”というゲームがリリースされたのでウェスタンというテーマからガンメーカーのコネティさんを取材したいのです。」とはっきりと言われた。ゲームに疎い事で臆病風をふかした私は「予定を検討して改めてご連絡します。」と電話を切った。ゲームかぁその昔「インベーダー」思いっきりやったなぁ〜、と考えていたら、ふと前の項での1980年米国に渡ったときのことを思い出した。ネヴァダ大学のスチューデント・センターのカフェテリアにインベーダーゲームの機械が置いてあってそれに挑戦したことだ。当時、このゲームに関してはかなりのスキルだった。特に「名古屋撃ち」の名人。(インベーダーゲームで反応するのは年令が分かりそう)。名古屋撃ちをマスターすると何面でも延々と続けることが出来る訳で集中して何面もクリアしていたら拍手が聞こえ、ふとわれに返って顔を上げたら回りは黒山の人だかり。学生たちが私を見守っててびっくりしたことがあった。さて話は「ファミ通」に戻るが、えぇーい、ゲームやれと言われりゃぶっつけでやればいいや、とばかりに取材受諾をしたが取材のプレパラで以下の問い合わせがメールされてきた。一部を掲示したので参考に。結局ゲームはやらずに済んだ。でも、このゲーム、トルネード氏から「本当に面白い!」と太鼓判押されました。皆さんも挑戦されては如何だろう。

インタビューのご質問項目:
・ウェスタン、カウボーイを好きになったきっかけ
ウェスタンの山へはたくさんの登り口があります。それは音楽、ファッション、乗馬、、映画、銃などがあり私の場合は子供の頃(典型的な団塊世代)のTVウェスタンブームでした。ララミー牧場、ボナンザ、パラディン、ローハイド、拳銃無宿、ライフルマン、星の数ほどありました。私を含め、当時の子供たちは西部のガンマンになりたいと思っていたはずです。そんな気持ちを持ったまま大学を卒業、某広告代理店へ、しかし「ソフト」を売るのではなく「ハード」を売る仕事をしたい、10年後にドロップアウトモデルガン、エアガンの製造、販売会社ハートフォードを設立します。製造するガンは当然ウェスタンガンが中心になり、今に至っています。
・ウェスタンの魅力
ある意味、ウェスタンはライフスタイル、もっと突き詰めると「生き方」につながるのではないでしょうか?ウェスタンの本質はフロンティア・スピリット、開拓者精神に有ると思います。何事にも負けず進むというそういう精神に有ると思います。今ではモデルガン(ハード)を売ると同時にそのスピリット(ソフト)も付けていると考え企業活動をしています。

・好きな西部劇作品、俳優(役)
月並みですが映画では「荒野の七人」、TVウェスタンでは「拳銃無宿」、ですから好きな俳優さんはスティーブ・マックィーンさん。彼の遺作である「ハンター」は、たまたまアメリカに居たのでサンフランシスコで見ましたね。

・ファストドロウを始めたきっかけ
とにかく鉄砲が好きな子供でしたからいつも早撃ちの真似事をしていましたね。大人になってからも一種のお座敷シューターとして家でひっそりと練習しました。実際に私が現在のファストドロウに関わるのはモデルガン製作が始まってからです。モデルガンはコレクションする、分解する、組み立てる、メカを知る、上品なインテリア品としてお部屋に飾るなどの静的な用途が中心だったものを「よりアクティブに楽しむ」という新たな用途の提案をしたくて関わりが始まりました。

・ウェスタンにまつわる、印象的な思い出
トイガンビジネスを始めて数年後に米国サンフランシスコで実物のコルトSAA45(通称ピースメーカー)を購入しました。サンフランシスコに預けてあるそれを撃つのが米国出張の楽しみでした。コルトSAA45は1873年に製造が始まったコルト社のフラッグシップ的な製品で140年近く経過しているにも関わらず現在も同じデザイン、同じメカニズムで製造されている西部のガンマンのための拳銃です。銃に「ピースメーカー」とニックネームをあるほどの超有名なガンで本ゲーム中でも使われています。
 
2010年11月24日発売の週刊「ファミ通」
同号にて掲示された私とトルネード吉田氏の記事

【2010年12月28日発】

(株)ハートフォード代表 コネティ加藤



第61話 JFK

 平成22年10月下旬に米国第35代大統領のJ.F.ケネディ氏のスピーチ・ライター「ソレンセン」氏が亡くなったという報道 があった。脳卒中の合併症でニューヨーク市内の病院で亡くなられたそうだ。彼の手がけたスピーチには「国家があなた方にしてくれることを問うのではなく、国家のために何ができるかを問いなさい」(61年の大統領就任演説)や「たいまつは新しい世代に引き継がれた」など、歴史に残る数々の演説がある。実は私がするスピーチのほとんどはケネディ氏のスピーチの引用(パクリ?)だ。ケネディ氏暗殺のニュースは国際政治にまだ興味を持たない高校生の私にとっても衝撃的だった。大学でやっとケネディの政治手腕や黒人差別撤廃に努力したその姿を改めて知った。当時は英語、英会話を学ぶクラブ(E.S.S.= English Speaking Society )だったので彼のスピーチを強制的に暗記させられた。若い頃に覚えたことは結構忘れることなく老化した頭のこの歳でも何とか全文を言える。中でも前述の「 Ask not what country can do for you, Ask what you can do for your country. 」と「 Let us go forward together with our united strength! 」はファストドロウ大会でのスピーチで使わせてもらったものだ。大学卒業後のサラリーマン時代、1976年から週刊文春で連載した「2039年の真実」(落合信彦氏)にものめりこみ毎週が待ち遠しかった。サラリーマンをドロップアウトした1980年 、初めてアメリカ本土へ渡った。この時には真っ先にケネディ氏暗殺の地、テキサス州ダラスに行き、同ミュージアムや図書館ビルにも立ち寄った。そう考えると彼は私にいろんな意味での影響を与えている。ところでこの1980年訪米の際、半年間放浪したが途中でお金がなくなり 数日間ホームレスを体験した。このお話いつかまとめたい。
映画「JFK」DVD 1991年ワーナー、監督;オリバー・ストーン 主演;ケビン・コスナー 今でも時々見る。
1980年夏テキサス州ダラスに行ったときのショット。新聞や映画でよく使われる風景。
ケネディ・メモリアル・シンボル。JOHN FITZGERALD KENNEDY の文字が読める。
シンボルの前でのショット。当時はとてもやせていた。
ケネディ・メモリアル・ミュージアム。写真が良くなくて申し訳ない。 なんせ30年以上前の写真だからね。
正面にケネディ氏の大きな写真が掲げられている。
暗殺に使用されたという「カルカーノ銃」の見本展示も見える。
ハートフォード・カップの楯。Let us go forward together with WFDA and Hartford spirit! が読める。
たてを持つ私。

【2010年12月28日発】

(株)ハートフォード代表 コネティ加藤



ご清聴(?)ありがとうございました(笑) from WEBスタッフ@ハートフォード
(background illustrated by ソウマン)

 

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